自然観察大学
2018年12月9日 自然観察大学 室内講習会(通算第33回)
ユスリカとその狩人たち
田仲義弘 先生
狩蜂の行動を長年研究するとともに、写真に収めてきた。インセクタリウム高崎賞を受賞。長年つとめた大妻中学高等学校を退職し、2012年から写真家として活動中。自然観察大学講師。
このレポートで掲載した写真と図は田仲義弘(一部表記したものを除く。禁無断転載)
ユスリカをじっくり観察した人はあまりいないと思いますが、ユスリカの蚊柱は見たことがあるのではないでしょうか。蚊柱は婚活する雄のユスリカの集団です。
ユスリカは、見かけは蚊に似ていますが、吸血はしません。不快害虫とされ、しばしば大発生して話題になります。
東京近辺ではアカムシユスリカ、オオユスリカなど数種類のユスリカが知られています。幼虫はアカムシと総称されて、釣りの餌などになっています。
ユスリカ幼虫(上)と蛹(下)
アカムシユスリカ雄成虫(左)と雌成虫(右)
(「新版 野外の毒虫と不快な虫」より)
●はじまりはウグイスユスリカハンターたちに魅せられる
2月のはじめに、目的の撮影を終えて林内の池のほとりでぼんやり見ているときでした。
ウグイスが林の奥から池の岸に出てきて、何かをしてはまた林に隠れ、それをくり返していました。
何かあると思ってビデオ撮影し、帰宅後にその画像を見てびっくりしました。
ウグイスがユスリカを食べているではありませんか。
いまのビデオカメラは高性能ですね。ありがたいことです。
ユスリカを捕らえるウグイス
●セグロセキレイで火が付いた
11月にセグロセキレイのユスリカ狩りを見ました。
池の中の看板にとまって、飛び立ってはUターンして戻ってきます。あるときは水面すれすれで、またある時は空中で、何かをくわえます。これを延々と繰り返しています。
ウグイスで見た経験から、これはユスリカを捕っているのではないかと考えました。
好奇心に火のついた私は、何日も通って、膨大な画像をコマ送りでチェックしました。それがこの画像です。
池の中の看板にとまるセグロセキレイ
水面でユスリカをとらえるセグロセキレイ
このユスリカは、後日アカムシユスリカと判明
水面から飛び立つユスリカをフライキャッチするセグロセキレイ
鳥にとってのユスリカは、スティックポテトのようなものではないかと考えています。小さいけどそれが目の前にたくさんいる... 卵をもった雌はなんとたらこ付きです。これを見逃す鳥はいませんよね。
 
ユスリカハンターにはほかにどんな動物がいるか、ユスリカの種類やその生態はどうかなど、私の興味は広がりました。
ハクセキレイ、キセキレイはもちろん、メジロ、ミソサザイ、ジョウビタキ、オジロビタキ、モズ、ツバメ、エナガ、ヒヨドリ、さらにはユリカモメまでユスリカを食べるのには驚きました。
鳥類以外では、狩蜂のニッポンギングチバチ、アジアイトトンボ、クモ類、二ホンカナヘビが、ユスリカを捕らえるのを確認しています。
●ユスリカの種類と生態
ユスリカの種類はどうでしょうか。
東京近郊では下図のように4種のユスリカが大量に発生し、それぞれの発生時期がずれていて、すみ分けているようです。それぞれにおもな狩人たちの写真を貼り付けました。
晩秋から早春の、食べ物の少ない時期に、鳥たちの重要な食料になっていると考えられます。
東京付近のユスリカとその狩人たち
オオユスリカは早春の、アカムシユスリカは晩秋のそれぞれ貴重な食料になっているようです。
ユスリカの生態が詳しく記載されている書籍がありました。「野外の毒虫と不快な虫」(梅谷献二、全農教)です。その一部、産卵の箇所が興味深いものでした。

<オオユスリカ>
成虫は飛翔能力にすぐれ、湖岸から2kmぐらい陸側にも多数飛来する。雌成虫はいったん壁面や構造物に止まり、後脚の間に卵塊を産み、それを挟んだまま飛び立ち水面に産下する。この過程で最初に接触した物体に卵塊を産下してしまう習性
があるため衣服や洗濯物を汚染するケースが多い。

<アカムシユスリカ>
成虫は水面に静止して1,000〜1,200粒よりなる螺旋状の卵塊を産み落とす。
「新版 野外の毒虫と不快な虫」(梅谷献二編、全農教)より抜粋
オオユスリカとアカムシユスリカの産卵のようすが撮影できたので紹介しましょう。
オオユスリカの産卵
後脚の間に卵塊をはさんでいる
アカムシユスリカの産卵
らせん状の卵塊が水中に伸びる
【トンボの狩猟行動】
トンボの成虫は空中で獲物を捕らえて食べますね。もちろんユスリカを捕らえるわけですが、観察しているうちにその狩猟行動に魅せられました。
テーマのユスリカからそれますが、トンボの狩りの話をさせてください。
ユスリカを捕らえたアジアイトトンボ
トンボは愛好家の多い、人気の高い昆虫ですが、意外なことに、トンボの狩猟行動についてはほとんど報告されていないようです。
例によって、獲物を捕らえる瞬間を動画で撮影して、その画像をパソコンで確認します。
鳥のときと同じに一コマずつ送りながら見ていくので、気の遠くなるような作業です。
トンボの脚は6本すべてが前を向いていて、剛毛が生えています。
この脚を網のようにして、獲物を捕らえるのですが、トンボの種類によっていくつかのパターンに分かれるようです。
観察してみると、上からつかむクレーン型と下からすくい上げるザル型の2パターンがあることがわかりました。
さらに、ザル型には飛行中に獲物を見つけた後、いったん下降して回り込む「制空型」と、枝先などにとまって獲物を待ち、見つけると同時に飛び立つ「待機型」があることがわかりました。
イトトンボのなかまは、飛翔力が高くはないので、また違った狩りかたをするようです。
ふだんは枝先にとまっていますが、上空に獲物を見つけると同時に飛び立ち、ホバリンクしながら捕らえます。獲物を捕らえたまま再び元の枝先に戻り、ゆっくり食べるというわけです。
トンボの狩猟行動の観察はまだはじめたばかりです。
もう少し続けて観察して、また報告させていただきたいと思います。
レポートまとめ:事務局 O

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考古学から見た古代日本の鳥
賀来孝代 先生
専門は鳥の考古学。鳥形の考古遺物、鳥と人との関わりを時代を問わず研究。ここ10年では、とくに古墳時代(3世紀後半から7世紀)に興味がある。(有)毛野考古学研究所。著書は「鳥学大全」共著(東京大学総合研究博物館)など。野鳥観察・自然観察の視点をもつ考古学者。
このレポートで紹介した写真と図は禁無断転載
考古学というと遺跡の発掘の場面でハケで地面をコチョコチョしているような、そんなイメージをもたれる方が多いと思います。あるいは恐竜の発掘を思い浮かべる方も多いでしょう。
考古学は遺跡や遺物に残る人間の生活や文化を研究するものです。考古学の強みは、文字による記録のない古墳時代より前にさかのぼれるということ。それと文字にくらべて遺跡から得られる情報が豊富ということもあります。
私は子どものころから自然が好きで鳥好きでした。考古遺物の発掘調査の中で、あるとき鳥の画と自分の鳥好きが結びついて、鳥の考古遺物の研究を始めました。
これからお話する鳥の話も、古代の鳥の話ではなく、人間と係った鳥の話です。考古遺物に表れる鳥は人間の視線の先にいる鳥です。鳥を人の側から見たものですが、現代においても私は鳥を見て、自然を愛し、かかわりを大切にしています。しかし、現代も今までの歴史の上に成り立っており、決して独立した「今」ではないのも確かです。
自然観察大学で、私が考古学を通してお話しする意味を見つけるヒントは、このあたりにありそうです。
●考古学で扱う鳥(1)
 
鳥の骨─食料としての一次的利用─
古い時代のものになると骨すらもなかなか残りませんが、貝塚や低湿地の遺跡で鳥の骨が得られます。旧くは捕ることのできる鳥は多種多様に出土しています。食べるものはなんだって食べたわけです。なかではガンカモ類のように肉の多い鳥が多い傾向があります。
ニワトリは弥生時代に日本に入ってきたと考えられていますが、弥生時代の出土は11例しかありません。そのうち7例は壱岐です。11例のうち10羽は雄で、雌の鶏はわずか1羽でした。
当時のニワトリは小さくて軽く、卵も1年に10個程度しか生まなかったと思われます。肉も卵も期待できるものではありませんでした。
ニワトリの骨が多く見つかるようになったのは千年後の江戸時代です。
図は薩摩藩、仙台藩、尾張藩のそれぞれ江戸藩邸から発掘された鳥の骨です。
ニワトリやキジなどの地上性の高いキジ科の鳥や、ガンカモ類がたくさん出土し、食肉としての鳥が流通していることがうかがえます。多種多様な鳥の骨を出土していた昔から、経済的に生産する、あるいは流通にのるほど捕獲できる状況が江戸時代には確立したのです。
商家で宴会にチキンを食べて大量の骨が一時に捨てられた例もあります。裕福な大店が登場していた証拠です。
もっとも、家禽としてのニワトリの大量生産は19世紀後半から始まります。明治になってからですね。この傾向は世界的で、今の私たちが考えるようなニワトリのあり方は、うんと最近になってからのことです。
出典:山根洋子2013「近世江戸の鳥獣類利用」『動物考古学』30
●考古学で扱う鳥(2)
 
鳥骨と羽─二次的利用─
二次的利用では埋葬の際の副葬品などの例が見られますが、ここでは矢羽の例を紹介しましょう。
縄文時代は今から1万6千年前ころに始まったと考えられていますが、その早い段階で狩猟の道具として弓矢が使われたと考えられています。そして2千数百年前からは武器としても使われるようになりました。
鳥の二次的な利用は、矢に植える羽毛です。1万年を超える弓矢の歴史の中で、矢羽根が確認できたのは約1600年前の古墳時代からです。
古墳では、死者を葬る時に大量の武器を一緒に埋めます。数千本の矢、百本を超える矛、数十本の刀や剣というように、一人の首長のために大量に埋める副葬品の中に大量の武器が含まれます。矢筒に入ったままの数十本の矢がまとまって出土したり、数十本ずつ束になった矢が何束も出土したりします。また、やはり低地の古墳の副葬品が水漬けになって矢羽根の痕跡が残る矢も少しながら出土するというわけです。
栃木県七廻鏡塚古墳
大阪府鬼虎川遺跡 第7次調査
出典:近藤敏2003「弓矢という道具の矢」『土曜考古』27
ところで、鳥の羽毛ですが、軸が片寄っているのはご存知ですね。羽毛にはそれぞれうねりがあって、身体を覆うときに、空気や雨を遮るように重なっています。ちょうど家の屋根瓦を葺いているようなものです。下からの空気は漏れないで揚力をすべて翼に活かし切れるように、背中に受ける雨水はすべて羽毛の表面を伝って流れ、身体から体温を奪わないようになっているわけです。
左翼の羽毛 右翼の羽毛
矢羽根の断面
矢羽根はそのうねりを利用しています。その理由は断面をみると明らかです。真ん中の円が矢柄で、3方向に延びた線が羽の断面です。3枚が身体の同じ側の羽毛だからこそ、同じ方向に弧を描いています。左右の羽毛を混ぜてしまったら、矢の安定に貢献どころか、失速の原因になるのではないでしょうか。
当時の人々は狩猟のために獲物となる動物や鳥類の生態に詳しかったのは当たり前ですが、利用のためにも詳しかったことがうかがえます。
●考古学で扱う鳥(3)
 
鳥の絵画造形
人間が本当の意味で人間らしいと感じるのは、鳥を描いたり造形したりしていることです。目の前にあるものをただ受け入れるだけでなく、それを何かに写し取る、つまり元のものを抽象化するという行為は人間だけができることだからです。
鳥を食べ、利用してきた人間はその利用の中にも単に物質的な意味だけでなく、たとえば、猛禽の力がその羽に憑依すると考えられていました。
私はこの分野を得意としているのですが、限られた時間ですので、この中から鵜飼と鷹狩を表す絵画造形、とくに古墳時代の埴輪について話したいと思います。
鵜形埴輪
大阪府 太田茶臼山古墳 正面と側面
群馬県 保渡田八幡塚古墳
出典:賀来孝代2017「古墳時代の鵜と鵜飼の造形」『古代』140
左の太田茶臼山古墳の埴輪は首がありませんでしたが、止まり木にとまったウと考えられます。丸い頭や足のつく位置、くちばしの長さ、なにより大きな水かきがあることで、ウとわかりました。
右の保渡田八幡塚古墳の埴輪は、魚をくわえた姿になっています。
注目したいのは、頸のところの紐です。両者ともに背中で結んで先を垂らしています。
これは鵜飼には必需品で、頸紐のゆるみによって大きな魚を飲み込むことができず、吐き出させて人のものになるというわけです。
紐の先が垂れ下がっているのは、この時代の鵜飼は"放ち鵜飼"だったことを表しています。鵜形埴輪にはウと人をつなぐ紐は1例も存在しません。
鵜形埴輪では、止まり木にとまった姿のほかに、人の手に乗ったものも見つかっています。
現在20の遺跡から22例の鵜形埴輪が発見されていますが、そのうち18遺跡は1体で出土しています。当時の鵜飼は1羽で行うのが主流だったと考えられます。
太田茶臼山古墳の埴輪は、翼がつけ根からなくなっています。これは羽を乾かすために翼を広げたところと考えられます。
ウは潜水のために羽の防水機能をなくしました。それで翼を乾かす必要があるというわけです。
古墳時代の人は、その姿を観察し、理解し、正しく埴輪に写していたのです。
カワウ(写真:川名興)
鷹形埴輪
群馬県 オクマン山古墳 6世紀末(全身とその上半身拡大)
出典:太田市教育委員会1999『鷹匠埴輪修復報告書』
頭が丸く、くちばしが短くて先端がかぎのように屈曲しているので鷹とわかります。腰には鈴をつけています。
人の方は正装した男性で、腕には猛禽の爪から腕を守る籠手を装着しています。
現代の鷹匠は発信機を使っているようですが、基本的には当時と変わっていませんね。
考古遺物は人間の目を通したものです。人間の観察から外れたものは表現されません。ただし、その人間は現代人ではなく、1500年前の人、あるいは1万年前の人かもしれない。現代人の視線とは違う視線をもっているかもしれないのです。つまり物言わぬ考古遺物から、現代人の色眼鏡を外して考古遺物に向き合うことが大切と考えます。
鳥と人とのつながりにはいくつかの段階があります。新しい要素は、以前の関係を壊すことはなくたえず付加されて、今に続いています。現代の鳥と人との係わりもその延長に位置していると考えています。
レポートまとめ:事務局 O

2018-19年 室内講習会
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